ヨウカイジ

耀海寺

ご皇室・徳川家ゆかりのお寺
寺院
  • 仏教寺院
エリア
静岡県静岡市清水区
最寄り駅
JR東海道本線 興津駅 から徒歩4分
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メッセージ
~当山について~

・はじめに
長い間の歴史の中で起こった天災や火災や戦火、殊に明治維新の廃仏毀釈の煽りを真正面から受けた当山は、幾多の寺宝や古文書などの典籍が烏有に帰し、詳細な縁起は残された僅かな資料・口碑などによってしか垣間見ることができません。しかし改宗500年記念事業に発端とする寺史調査によって、日々新発見が相次ぎ、失われた歴史もだんだんと明らかになっています。

・創建から改宗まで
現在解っていることによれば、当山は古来より、人皇十三代成務天皇2年(132)に勧請された茨原(庵原・石原)明神(のち宗像三女神・神仏習合により宗像弁財天)を祭祀していた地に、平安の昔の延暦10(791)年坂上田村麻呂公夷賊(蝦夷)の討伏の途次、都より守り本尊として奉じてきた行基菩薩作の不動明王ご尊像と信州諏訪明神を、戦勝祈願・道中安全のために当地に安置し祈請され一宇を建立されたのが、当山創建の始まりと伝わっております。

そして甲州修験道の発展に伴い、身延道入口に近い当山は往時隆盛を誇った天台修験(本山派)から真言修験(当山派)の傘下に入り、「林陽坊」と号す一大修験道場として栄えました。また現在も、庵原氏の末である当地の領主であり、横山城主であった興津氏の子孫の氏寺でもあります。

その後の今から500年前の室町時代の永正7(1510)年、日像聖人ゆかりの地に、武田勝頼と縁の深い時の本陣市川法清の尽力にて、身延山12世円教院日意上人を迎え、寺号を教敬山耀海寺と賜り、改めて日蓮宗の寺院として開創されました。そして日意上人は林陽坊の主尊であった茨原明神・不動明王を改めて法華勧請し、公儀山に鎮守尊として移し、田村麻呂公ゆかりの諏訪明神も併せて祀られ、弁天社などの堂宇の建立など、多岐に亘る整備をなされ当山の基礎を作られたと伝えられております。

・耀海寺の隆盛
後には、身延山直末として円教坊・本林坊・本静坊の3塔中に石塔寺(開山日像菩薩、開基妙恩日如尼。宗像弁天社別当・法華題目堂)・本立寺(林之坊)2カ寺を有する中本寺(中本山)、また慶長年間には同地区の触頭となり、現在の茨原神社社殿となっている祈祷殿や妙見宮・七面宮・日朝堂など多数の堂宇も有する隆盛を誇り、波切不動尊・宇賀弁財天・妙見大菩薩・大黒尊天・七面大明神の霊験顕著は四方に轟き、益々当山は発展し、清見寺より興津川までの境内地を持つ行学二道の巨刹として栄えました。

その時代、7人の歴代のお上人は西谷檀林(現在の身延山大学)の講主(校長)でございます。

・徳川家とのご縁
時を経るに従い当山のご祈祷の効験が四方に響き、徳川家康公のご側室で水戸黄門でおなじみの光圀公の祖母にあたる養珠院お万の方様よりは、徳川家の永世祈願所との命を賜り、また多大なる外護を賜りました。

・ご皇室との結びつき
法華信仰に篤かった後水尾天皇の御世の山首、第五世日護上人の代にはご皇室の外護を賜り、勿体なくもご皇室の永世祈願所となる栄誉に浴し十六弁菊紋の使用が勅許されました。そうしてご皇族とのご縁も深くなるなか、特に村雲御所瑞龍寺門跡様、伏見宮家様方との深い結びつきは日毎に増し、更には村雲御所の永世祈願所にも制定される栄に浴し、後、御所より身延山へ永代十六弁菊紋緋紋白着用の御沙汰を頂き、その格式を誇るに至りました。

時は過ぎ、廃仏毀釈で非常な困難に遭った当山に朗報が舞い込みます。明治のご維新の政策で、ご皇室との縁も断たれてしまいましたが、明治22年の夏心堂大祭の折には当山に明治天皇のご名代として、伏見宮第十皇女であられた村雲御所瑞龍寺門跡・万佐宮日栄尼公殿下の御行幸を賜りました。更には大祭の大導師をお勤め頂き、ご名代ながらも当山は天拝を受ける栄にあずかりました。

・困難を乗り越えて
幕末の尊皇派の台頭や、明治のご維新の神仏分離令に伴う廃仏毀釈の煽りにより、古くから皇族方から民衆にいたるまでの祈祷寺院として積極的に神祇勧請をしていた当山は、東海道に面しているため甚大な被害を受けました。明治4年には祈祷殿であった不動堂が、天照太神・八幡大菩薩・茨原明神・七面大明神・諏訪明神や天部の神々を併祀していたがためか茨原神社に、また疱瘡社(祇園牛頭天王社)は津島神社に、創建の旧地(社の古地。しゃこち)は社護神社へとそれぞれ分離し、また旧石塔寺宗像弁天社は、別当寺であった当山から現在は女体の森宗像神社となりました。

恐ろしい程の煽りを受け、清見寺より興津川西辺までの広大な境内地は召し上げられ、祈祷殿を始めとする諸堂には新たに神社が建立され、その上本堂を始めとする夏心堂などの諸堂宇や、末寺・塔頭が破却焼却の憂き目に遭い本寺である耀海寺に合併し、数々の寺宝をも失ってしまうという当山最大の苦難に遭いました。その傷跡は現在でも見ることができます。

そのような不安な時代においても、旧不動堂(現茨原神社)御神体の本尊曼荼羅を始めとする諸堂で勧請されていたほとんどの諸尊像が有難くも難を逃れることが出来ましたのは、時の二十六世古谷日逢上人の命懸の尽力に依るところによります。ちなみに不動尊像もその時に御威徳高く難を逃れ格護されておりましたが、別に日蓮宗興津山不動院として建立され、現在は地域自治会と当山にて護持しております。

明治9年に客殿と庫裏と小堂のみが残った当山は、日逢上人・二十七世久保田日遥上人(立正大学第五代学長)の努力により短期間で夏心堂を始めとする諸堂宇が整えられ、寺勢も再起し復興を遂げましたが、明治22年には当時の国策であった東海道線開通に伴い地所を呈上したことにより、山門を失い境内は線路によって分断されてしまったのであります。

また先の大戦に於いての金属供出により、鐘楼や拝領の貴重な什物類も失ってしまったことなど、時代の要請や趨勢と致しましても慚愧に堪えません。

時代に翻弄された当山ですが、災禍より逃れたご本尊やご尊像に古文書といった什物が、現在も歴代上人の努力により残され創建より1200年余。

そして日蓮聖人の御教えを伝えて500年という法灯を現在に伝える興津屈指の名刹であります。

耀海寺の基本情報

スポット名 耀海寺
TEL 054-369-1256
住所 〒424-0205
静岡県静岡市清水区興津本町223
営業日
参拝時間:
お問い合わせ下さい
年中無休:
-
HP http://www.geocities.jp/kashin_san/
駐車場 あり
備考 ~当山について~

・はじめに
長い間の歴史の中で起こった天災や火災や戦火、殊に明治維新の廃仏毀釈の煽りを真正面から受けた当山は、幾多の寺宝や古文書などの典籍が烏有に帰し、詳細な縁起は残された僅かな資料・口碑などによってしか垣間見ることができません。しかし改宗500年記念事業に発端とする寺史調査によって、日々新発見が相次ぎ、失われた歴史もだんだんと明らかになっています。

・創建から改宗まで
現在解っていることによれば、当山は古来より、人皇十三代成務天皇2年(132)に勧請された茨原(庵原・石原)明神(のち宗像三女神・神仏習合により宗像弁財天)を祭祀していた地に、平安の昔の延暦10(791)年坂上田村麻呂公夷賊(蝦夷)の討伏の途次、都より守り本尊として奉じてきた行基菩薩作の不動明王ご尊像と信州諏訪明神を、戦勝祈願・道中安全のために当地に安置し祈請され一宇を建立されたのが、当山創建の始まりと伝わっております。

そして甲州修験道の発展に伴い、身延道入口に近い当山は往時隆盛を誇った天台修験(本山派)から真言修験(当山派)の傘下に入り、「林陽坊」と号す一大修験道場として栄えました。また現在も、庵原氏の末である当地の領主であり、横山城主であった興津氏の子孫の氏寺でもあります。

その後の今から500年前の室町時代の永正7(1510)年、日像聖人ゆかりの地に、武田勝頼と縁の深い時の本陣市川法清の尽力にて、身延山12世円教院日意上人を迎え、寺号を教敬山耀海寺と賜り、改めて日蓮宗の寺院として開創されました。そして日意上人は林陽坊の主尊であった茨原明神・不動明王を改めて法華勧請し、公儀山に鎮守尊として移し、田村麻呂公ゆかりの諏訪明神も併せて祀られ、弁天社などの堂宇の建立など、多岐に亘る整備をなされ当山の基礎を作られたと伝えられております。

・耀海寺の隆盛
後には、身延山直末として円教坊・本林坊・本静坊の3塔中に石塔寺(開山日像菩薩、開基妙恩日如尼。宗像弁天社別当・法華題目堂)・本立寺(林之坊)2カ寺を有する中本寺(中本山)、また慶長年間には同地区の触頭となり、現在の茨原神社社殿となっている祈祷殿や妙見宮・七面宮・日朝堂など多数の堂宇も有する隆盛を誇り、波切不動尊・宇賀弁財天・妙見大菩薩・大黒尊天・七面大明神の霊験顕著は四方に轟き、益々当山は発展し、清見寺より興津川までの境内地を持つ行学二道の巨刹として栄えました。

その時代、7人の歴代のお上人は西谷檀林(現在の身延山大学)の講主(校長)でございます。

・徳川家とのご縁
時を経るに従い当山のご祈祷の効験が四方に響き、徳川家康公のご側室で水戸黄門でおなじみの光圀公の祖母にあたる養珠院お万の方様よりは、徳川家の永世祈願所との命を賜り、また多大なる外護を賜りました。

・ご皇室との結びつき
法華信仰に篤かった後水尾天皇の御世の山首、第五世日護上人の代にはご皇室の外護を賜り、勿体なくもご皇室の永世祈願所となる栄誉に浴し十六弁菊紋の使用が勅許されました。そうしてご皇族とのご縁も深くなるなか、特に村雲御所瑞龍寺門跡様、伏見宮家様方との深い結びつきは日毎に増し、更には村雲御所の永世祈願所にも制定される栄に浴し、後、御所より身延山へ永代十六弁菊紋緋紋白着用の御沙汰を頂き、その格式を誇るに至りました。

時は過ぎ、廃仏毀釈で非常な困難に遭った当山に朗報が舞い込みます。明治のご維新の政策で、ご皇室との縁も断たれてしまいましたが、明治22年の夏心堂大祭の折には当山に明治天皇のご名代として、伏見宮第十皇女であられた村雲御所瑞龍寺門跡・万佐宮日栄尼公殿下の御行幸を賜りました。更には大祭の大導師をお勤め頂き、ご名代ながらも当山は天拝を受ける栄にあずかりました。

・困難を乗り越えて
幕末の尊皇派の台頭や、明治のご維新の神仏分離令に伴う廃仏毀釈の煽りにより、古くから皇族方から民衆にいたるまでの祈祷寺院として積極的に神祇勧請をしていた当山は、東海道に面しているため甚大な被害を受けました。明治4年には祈祷殿であった不動堂が、天照太神・八幡大菩薩・茨原明神・七面大明神・諏訪明神や天部の神々を併祀していたがためか茨原神社に、また疱瘡社(祇園牛頭天王社)は津島神社に、創建の旧地(社の古地。しゃこち)は社護神社へとそれぞれ分離し、また旧石塔寺宗像弁天社は、別当寺であった当山から現在は女体の森宗像神社となりました。

恐ろしい程の煽りを受け、清見寺より興津川西辺までの広大な境内地は召し上げられ、祈祷殿を始めとする諸堂には新たに神社が建立され、その上本堂を始めとする夏心堂などの諸堂宇や、末寺・塔頭が破却焼却の憂き目に遭い本寺である耀海寺に合併し、数々の寺宝をも失ってしまうという当山最大の苦難に遭いました。その傷跡は現在でも見ることができます。

そのような不安な時代においても、旧不動堂(現茨原神社)御神体の本尊曼荼羅を始めとする諸堂で勧請されていたほとんどの諸尊像が有難くも難を逃れることが出来ましたのは、時の二十六世古谷日逢上人の命懸の尽力に依るところによります。ちなみに不動尊像もその時に御威徳高く難を逃れ格護されておりましたが、別に日蓮宗興津山不動院として建立され、現在は地域自治会と当山にて護持しております。

明治9年に客殿と庫裏と小堂のみが残った当山は、日逢上人・二十七世久保田日遥上人(立正大学第五代学長)の努力により短期間で夏心堂を始めとする諸堂宇が整えられ、寺勢も再起し復興を遂げましたが、明治22年には当時の国策であった東海道線開通に伴い地所を呈上したことにより、山門を失い境内は線路によって分断されてしまったのであります。

また先の大戦に於いての金属供出により、鐘楼や拝領の貴重な什物類も失ってしまったことなど、時代の要請や趨勢と致しましても慚愧に堪えません。

時代に翻弄された当山ですが、災禍より逃れたご本尊やご尊像に古文書といった什物が、現在も歴代上人の努力により残され創建より1200年余。

そして日蓮聖人の御教えを伝えて500年という法灯を現在に伝える興津屈指の名刹であります。
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