ホウチガイジンジャ

方違神社

方位のない地であるとして古くから方位、地相、家相などの方災除けの神社として信仰を集めてきた
神社
  • 神社
エリア
大阪府堺市堺区
最寄り駅
南海電気鉄道高野線 堺東駅 から徒歩7分
JR西日本阪和線 堺市駅 から徒歩15分
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御祭神
社伝によると、人皇10代崇神天皇5年、国内に疫病が流行し多くの民が死亡した。
これを憂いた天皇は、同8年12月(紀元前90年)勅願により物部大母呂隅足尼(もののべのおおもろすみのすくね)を茅渟の石津原(当地)に遣わせ、須佐之男神を祀らせ給うた。すると疫病は途絶え五穀は豊穣となったといい、これが方違神社創祀の起源とされる。

創祀より時を経て神功皇后が新羅より凱旋の途次、皇子(後の応神天皇)とは異腹の忍熊王の叛乱に遭うが、三筒男神の御神教により、神武天皇御斎祷の故事に倣い御自ら八十平瓮を作り
須佐之男神を奉祀した神地に於いて方災除けを祈願し皇軍を勝利に導いた。

後に応神天皇はこの地に須佐之男神・三筒男神・母后神(神功皇后)を合せ祀り、方違大依羅神社(かたたがへおおよさみのかむつやしろ)と名づけた。
以後、方災除けの神として朝廷武家をはじめ崇敬篤く、関連文献には、仁徳天皇・孝徳天皇・弘法大師空海・平清盛・後鳥羽天皇・徳川家康などの名前が見える。
明治元年には東京遷都の折に17日間の祈祷の命を蒙り、明治6年3月郷社に列し、明治40年2月水天宮社(村社)を合祀
同40年10月向井神社(郷社)並びに境内社(愛宕神社・神明社・小祠四社)を合祀して方違天王神社と改称したが、同40年11月方違神社に復号した。

また、明治40年12月に八幡社及び武内社を合祀し、近年には大規模な境内整備がなされ現在に至る。
御由緒
創祀より時を経て、神功皇后は夫である仲哀天皇の死後、朝鮮半島に出兵し新羅・高句麗・百濟を平定した。
皇后は新羅から凱旋の途中、皇子(後の応神天皇)とは腹違いの2人の王子の叛乱に遭うが、住吉大神の御神教により、5月晦日、御自ら沢山の平瓦を作って天神地祇を祀り、菰の葉に埴土を包み粽として奉り
方災除けを祈願して皇軍を勝利に導いた。後にこの地に神霊を留め、方違社と尊び奉る。
当神社奉斎地は--「三国山こずえに住まふむささびの鳥まつがごとわれ待ち痩せむ」--と、『万葉集』にも歌われているごとく、摂津住吉郡、河内丹治比郡、和泉大鳥郡の三国の境界なるが故に、“三国山”“三国の衢(ちまた)”また“三国丘”とも称され奈良時代には僧行基が此辻に伏屋を設け旅人の休憩に供したので、人馬往来の要衝であった。

また、平安時代には、熊野詣の通過地点であったため、熊野詣での人々は必ず当社へも参詣し、旅の安全を祈ったという。
この三国の境(ちなみに“堺”の地名はこれに由来する)で何処の国にも属さない、又方位の無い清地であるという考え方に依りその境内の御土と菰の葉にて作られた粽は、悪い方位を祓うという信仰を以て、古きより方災除の神として御神徳を仰ぐ参詣者が全国より訪れる。
御神徳
当社は古くより方災除の神として知られ、普請、転宅、旅行等の場合には当社の御神礼、御砂及び粽を受け、方除祈祷のお祓いを望む人が多い。
また、吾々が居住している家においても、家相上理想的な建築は容易ではなく、吾々が知らず知らずの間に
又知りながらも方位を犯して新築、改造、転宅、旅行等を行う時、古来唯一の方除けの守護神として
方位、地相、家相、日柄、厄年等に由来するすべての災難を取り除かせられ、幸をもたらすというその御神徳は、広く厚く尊崇せられている。
結婚式
方除の清地にて厳かに古式ゆかしい結婚式を執り行います

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近隣の式場・店舗をご案内いたしますが、当神社指定ではありません。
神社からのお取次もしておりませんので、直接お問い合わせください。

方違神社の基本情報

スポット名 方違神社
TEL 072-232-1216
住所 〒590-0021
大阪府堺市堺区北三国ケ丘町2-2-1
営業日
拝観時間:
9:00~16:00
年中無休:
※毎月「9日・19日・29日」は御祈祷を休みます。
※但し「土・日・祝」と「大安」の日は通常通り。
HP http://www.hochigai-jinja.or.jp
駐車場 あり
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