テンソジンジャ

天祖神社

東武東上線「ときわ台」駅より徒歩1分
神社
  • 神社
エリア
東京都板橋区
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メッセージ
「ご由緒」

江戸時代の文人蜀山人(太田南畝)が当社を訪れた時の紀行文(寛政九年:1779)には次のように天祖神社について記されています。

「上板橋の石橋を越へ右へ曲り坂を上りゆく、岐路多くして判りがたし、左の方に一丁あまり松杉のたてたる所あり、この林を目当てに行けば神明宮あり」

この「石橋」とは石神井川にかかる現在の「下頭橋」を指します。古くからこの地にいらっしゃる方は、いまでも「神明さま」と当神社を称される方もいらっしゃいます。当神社は明治5年までこのように「神明宮」「神明社」と呼ばれていたためです。

 天祖神社は、旧上板橋村の産土神として古くからおまつりされている神社です。御深草天皇(鎌倉時代)の頃に、伊勢神宮でお祭りされている天照大御神を勧請したという伝承もありますが、どれくらい古いのかということは、実ははっきりしたことはわかっていません。

 昔、上板橋村字原(神社周辺の地)に天照大御神のお姿が現われたという「影向跡(ようごうあと)」があって、そこに「伊勢神社」を勧請したという言い伝えもあります。 (『北豊島郡誌』) この「伊勢神社」は現在境内に「末社」としておまつりしていますが、この伝承は天祖神社の創建に深い関係があると考えられます。この影向跡がどこにあったのかは詳らかではありません。

 かつては村内のどこからもうっそうとした神社の杜が見えたといいます。この神社を地形からみると、石神井川に南面する緩やかな丘(標高32米)に位置しています。古代からこの川の近くに人々が住んでいたことを考えると、今のような神社の形態が整えられる以前から、ここは聖地と考えられていたかもしれません。

 上板橋村は、板橋地域のなかでも古い村のひとつです。江戸時代以前の古道である川越街道が村内を通っていること、付近一帯が豊島氏によって開拓されたことをなども考えると、鎌倉から室町時代にかけて集落が形成され、その村人達によって当神社は創建されたかと推測されます。


 さて江戸時代、当社の境内はどのようであったのでしょうか。蜀山人の紀行文の続きにはこうあります。
 
 「古杉老松を交えて大なる柊(ひいらぎ)もあり、宮居のさまもわら葺きにて黒木の鳥居神さびたり」
 
 昭和十一年、東武鉄道によって分譲された「ときわ台」の地名は、常磐なる松―当社のこの「老松」にちなんだといわれています。柊は当社の神木です。このような木々に囲まれた神社のたたずまいは、江戸時代にはすでに「神さび」を感じるようなものであったことがわかります。神社の入り口は現在よりももっと石神井川よりで、約三百米近くの参道があり、松・杉を主体とした樹木が繁茂し、昼でも暗いと言われる程でした。
 時代の移り変わりとともに、現在では境内地も約半分になりました。けれども駅付近に位置しながら、境内に一歩踏み入ると常磐なる杜の面影が残る境内に、喧騒を離れ静寂な時空に包まれるのです。
祭典行事
1月1日 / 歳旦(元旦)祭


1月21日 / 初月次祭


2月(立春の前日)/節分祭


4月21日 / 祈年祭(春祭)


6月30日 / 夏越の大祓


9月21日 / 例祭(秋祭)


11月15日 / 七五三


11月27日 / 新嘗祭


12月2日 / 熊手市


12月30日 / 年越の大祓
朝拝のご案内
毎月一日に朝拝(朝の祈り)は、一般の方々にもお祭りにご参列いただけるようにしております。

月始めの、すがすがしい朝のお祭りにぜひご参加ください。
午前八時から行う所要時間三十分程度のお祭りです。参列希望の方は当日ご社殿前においでください。

祭典終了後、神様にお供えした季節の和菓子をお下げして参列者の方々にお分けしています。

またギャラリー「鎮守の杜」では毎月一日、和菓子と手作りパンのお店をひらいています。こちらもどうぞお越しください。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 
~公式ホームページのご案内~■

天祖神社の基本情報

スポット名 天祖神社
TEL 03-3956-6168
住所 〒174-0072
東京都板橋区南常盤台 2-4-3
営業日
受付時間:
9:00~17:00
年中無休:
-
HP http://www.tokiwadai-tenso.or.jp/
備考 「ご由緒」

江戸時代の文人蜀山人(太田南畝)が当社を訪れた時の紀行文(寛政九年:1779)には次のように天祖神社について記されています。

「上板橋の石橋を越へ右へ曲り坂を上りゆく、岐路多くして判りがたし、左の方に一丁あまり松杉のたてたる所あり、この林を目当てに行けば神明宮あり」

この「石橋」とは石神井川にかかる現在の「下頭橋」を指します。古くからこの地にいらっしゃる方は、いまでも「神明さま」と当神社を称される方もいらっしゃいます。当神社は明治5年までこのように「神明宮」「神明社」と呼ばれていたためです。

 天祖神社は、旧上板橋村の産土神として古くからおまつりされている神社です。御深草天皇(鎌倉時代)の頃に、伊勢神宮でお祭りされている天照大御神を勧請したという伝承もありますが、どれくらい古いのかということは、実ははっきりしたことはわかっていません。

 昔、上板橋村字原(神社周辺の地)に天照大御神のお姿が現われたという「影向跡(ようごうあと)」があって、そこに「伊勢神社」を勧請したという言い伝えもあります。 (『北豊島郡誌』) この「伊勢神社」は現在境内に「末社」としておまつりしていますが、この伝承は天祖神社の創建に深い関係があると考えられます。この影向跡がどこにあったのかは詳らかではありません。

 かつては村内のどこからもうっそうとした神社の杜が見えたといいます。この神社を地形からみると、石神井川に南面する緩やかな丘(標高32米)に位置しています。古代からこの川の近くに人々が住んでいたことを考えると、今のような神社の形態が整えられる以前から、ここは聖地と考えられていたかもしれません。

 上板橋村は、板橋地域のなかでも古い村のひとつです。江戸時代以前の古道である川越街道が村内を通っていること、付近一帯が豊島氏によって開拓されたことをなども考えると、鎌倉から室町時代にかけて集落が形成され、その村人達によって当神社は創建されたかと推測されます。


 さて江戸時代、当社の境内はどのようであったのでしょうか。蜀山人の紀行文の続きにはこうあります。
 
 「古杉老松を交えて大なる柊(ひいらぎ)もあり、宮居のさまもわら葺きにて黒木の鳥居神さびたり」
 
 昭和十一年、東武鉄道によって分譲された「ときわ台」の地名は、常磐なる松―当社のこの「老松」にちなんだといわれています。柊は当社の神木です。このような木々に囲まれた神社のたたずまいは、江戸時代にはすでに「神さび」を感じるようなものであったことがわかります。神社の入り口は現在よりももっと石神井川よりで、約三百米近くの参道があり、松・杉を主体とした樹木が繁茂し、昼でも暗いと言われる程でした。
 時代の移り変わりとともに、現在では境内地も約半分になりました。けれども駅付近に位置しながら、境内に一歩踏み入ると常磐なる杜の面影が残る境内に、喧騒を離れ静寂な時空に包まれるのです。
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